これは、2016年12月1日、式場病院社員教育「できる社員養成研究 #2」において話した一部を投稿用に補筆したものである。
「医者は偉い」この言葉を皆さん、どのように受け止めるだろうか。「医学部に誰でも入れる訳じゃない。頭が相当良くなきゃ入れないから偉いと思う」「人の命を預かる重要な仕事だから偉いと思う」と肯定的な意見がある一方、「傲慢で横柄で嫌な連中」「頭のいいことを鼻に掛けている」と感情的な意見もある。では私は、というと、質問しておいて、それはないだろ、といった声が聞こえそうだが、まったく価値のない言葉だと思う。せいぜい、「アリは偉い」ほどの意味でしかないと思う。
「職業に貴賎なし」という江戸時代の思想家、石田梅岩による有名な言葉がある。「年間3000万円稼ぐ人もいれば、必死に働いても300万円の人もいる。職業は貴賎だらけだ」とこの言葉を誤解されている方もいるが、本来の意味は、どのような仕事も社会に必要とされているものであり、働くこと・職務を全うすること・労働をして稼ぐことは等しく貴いことである、人を仕事の内容によって差別すべきではない、ということであり、働いた結果得られるもの(お金など)が平等である、といった意味は本来ない。
この言葉を残した石田梅岩の時代においては、「貴穀賤商」と自分の手で何かを生み出す訳でもなく、金銭のやり取りだけで儲けている商人を蔑むところがあったが、彼はあえて、「武士が治め、農民が生産し、職人が道具を作り、商人が流通させる。どの職業も世の中のためになる点では貴いも賤しいもない」と説いた。時代は下って民主主義の現代、私はこの言葉をもう少し広く考えたいと思う。すなわち、職業だけでなく、年齢、性別、地域(生まれた場所や住んでいる場所)や財産、あるいは生まれてきた時代など人の属性に関わることすべてにおいて貴賎はない、あってはならないと考える。なぜならこれら属性の多くは、生まれる以前に決められており、個人の力で変えることができないからだ。人は否が応でも年を取る。性別は変えられない。生まれてくる土地はもちろん生まれてくる家も選べない。またこれら属性は会社が期待する正しい行動を約束するものではなく、財産があるからといって正しい行動をするとは限らないことは皆さんもご存知のことだと思う。つまり職業、年齢、性別といった属性に、尊いとか卑しいとか言うこと事態がナンセンスだといえる。
それでは、できる社員は「職業に貴賎なし」という言葉をどう超えていくか。私は「行いに貴賤あり」と新しく言い換えることだと考える。
「誰にも等しく与えられたものがあるとすれば、それは一日の時間である。けれども、与えられた時間をどう過ごすかは(自分で)決められる。」というマスターソンの言葉がある。どんなに忙しい人でも、時間を持て余している人でも、年老いた人でも、子どもでも等しく一日24時間と決められている。「私はとても忙しいから48時間」「私は子どもだから12時間」といった具合に時間がそれぞれの人によって振り分けられている訳ではない。できれば私だけには一日48時間あって欲しいと常々思うのだが、今のところその兆しもなく、毎日慌しい日々を送っている。しかし幸いなことに、与えられた時間をどう使うかは自分で決めることができる(もちろん事情が許さないこともあるだろうが)。
振り返ってみると、人生とは分岐の連続であり、右に行くか、左に行くか、あるいは前に進むか、後ろに戻るかなどと何かを常に選択して我々は生きている。同じようにどのような「行い」をするかといった選択も自分自身に委ねられている。
おそらく誰もが一度は読んだことがある、『蜘蛛の糸』という芥川龍之介の小説がある。「行いに貴賎あり」と言う視点から、この小説の代表的な部分を引用してみよう。
(1)カンダタは早速足を挙げて、踏み殺そうと致しましたが、「いや、いや、これも小さいながら、命のあるものに違いない。その命を無暗にとると云う事は、いくら何でも可哀そうだ。」と、こう急に思い返して、とうとうその蜘蛛を殺さずに助けてやったからでございます。
(2)そこでカンダタは大きな声を出して、「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸は己のものだぞ。お前たちは一体誰に尋いて、のぼって来た。下りろ。下りろ。」と喚わめきました。その途端でございます。今まで何ともなかった蜘蛛の糸が、急にカンダタのぶら下っている所から、ぷつりと音を立てて断れました。
どうだろう。釈迦の行為について面白いことに気づかないであろうか。つまりカンダタは極悪非道の大泥棒であったが、小さな蜘蛛の命を救った善い行いに対しては、極楽へ上るチャンスを、自己中心の酷い行いに対しては、地獄へ突き落とすと、それぞれの行いに対してそれに見合った賞罰を与えるという単純な規則を実直に行っている。
この図を見て欲しい。カンダタの一生と私の一生を「良い」「ふつう」「悪い」行動と生存行動を、「おおよそこうじゃないかな?」と推測にもとづき、強引に振り分けて円グラフにして比較したものだ。まず気づくことは生存のための行動が人生の多くを占めているということ。睡眠、食事、整容など生きるための行動が意外と多い。次に気づくことは、大悪人のカンダタにも「良い」行いがあり、平凡なショウジにも「悪い」行いがある。すなわち、どんな人にも「良い」行いと「悪い」行いがあり、100%「悪い」行いの人などいないということ。一方、100%「良い」行いの人もいないということだ。世の中で聖人と呼ばれた人でさえもその例に漏れない。世間の人はとかく、「あの人は良い人だ」とか「あいつは悪い奴だ」と簡単にラベルを貼り評価するが、白黒はっきりする、そんな単純なものではないのだ。
以前、看護師さん向けの講義において、「感情は伝染する」と話したことがある。人にはさまざまな感情があり、気付こうが気付かまいが、ひとりの感情が、連鎖的に周りの人に伝染する。怒りの感情は怒りを、幸せの感情は幸せを呼ぶのだ。同じように行いも伝染する。
法隆寺の西の森に、ラングドン ウォーナー氏(1881~1955)の記念碑が建てられている。戦前、2度来日し日本美術を学んだウォーナーは、米軍による日本本土への空爆により、貴重な文化財が焼失されることに胸を痛め、のちにウォーナーリストと呼ばれる、文化財保護上空爆すべきでない137箇所を示したリストを米軍へ提出した。その結果、京都、奈良、鎌倉を始めそのリストの8割前後が大きな被害を免れた。
戦後まもなく、日本文化財の国外流出を防ぐため来日したウォーナーは、留学中世話になった仏像修復家 新納忠之介、法隆寺貫首 佐伯定胤のもとを真っ先に訪ね、その無事を大いに喜んだと言われる。帰国後、新納から感謝の手紙を受け取ったウォーナーは、恩師にこのような手紙を送った。
「あなたは私が京都や奈良を救ったと思ってはいけません。我々は重要な寺院であるとか神聖なる場所のリストを軍に送る仕事をしてきました。もし私がこれらの名前をあげたことが役立ったとしたならば、それはあなたのもとで勉強させてもらったたまものでした。」
ウォーナーは、恩師新納が彼に行った「良い」行いを決して忘れてはいなかったのである。新納が行った「良い」行いは、敵対する国と国の壁を越え、人と人としての絆を深め、ウォーナーに「良い」行いを促したに過ぎない。そのことをウォーナーはよく分かっていたのである。
良い会社とは、良い社長、良い上司、良い部下がいるだけでは完結しない。良い顧客、そして良い隣人(会社に関わるすべての方々)がそろって初めて良い会社といえる。良い会社を作る最初で、最後の一歩。それが「良い」行いであると私は思う。
参考資料
1)マイケル・マスターソン、大富豪の仕事術、124ページ
2)NHK BS1スペシャル「美術家たちの太平洋戦争~日本の文化財はこうして守られた~」2017年1月8日(日) 午後8時00分(50分)放映