素晴らしき世界

I see trees of green, red roses too.
I see them bloom, for me and you.
And I think to myself, what a wonderful world.
Lyrics from “What a wonderful world”

緑の木々 赤い薔薇
みんな輝いている 僕と君のために
僕は思う なんて素晴らしい世界なんだ
(訳:永久保 昇治)

11月下旬、日本三名瀑のひとつ「袋田の滝」の紅葉を見に行った。私が住む松戸から片道およそ150㎞、3時間弱の距離もあったこと、紅葉の時期だけの特別ライトアップもあるということから、滝近くの旅館に一泊した。もう1、2週間早ければもっと鮮やかな紅葉を楽しめたのであろうが、来る時期がちょっと遅かった。少し寂しい「袋田の滝」の紅葉だった。

翌朝、「袋田の滝」巡りの使命を果たした私は、日立市にある大甕神社へ向かった。創祀は紀元前660年と極めて歴史の古い、近年は新海誠監督の大ヒット映画『君の名は』のスピンオフ小説に登場したことで注目が集まっている神社である。

大子町から常陸太田市をつなぐ県道33号を南下した。この県道33号は、その途中に月待の滝、竜神大吊橋といずれも紅葉の名所があり、この時期、紅葉狩り客で休日は渋滞するそうだ。だがその日は平日ということもあって、気持ち良いくらいに車の流れは良かった。しかし気持ち良いのは流れだけでなかった。この道路を走っていると、その両側を紅葉した里山が次から次へと視界に迫ってくるのだ。フロントガラス、サイドガラスに入ってくるその景色は、どれをとっても絵になる景色であり、一瞬でも通り過ぎるのが惜しいくらいだった。そのため、車を停め写真を撮ろうという誘惑は数知れなかった。

こうした圧巻の紅葉を見ているうちに私は不思議な思いに駆られた。それは、「山が紅葉するのは、我々人間を呼び寄せるための植物たちの巧みな罠ではないだろうか」ということだ。つまり山の植物たちは、紅葉することによって私たち動物を山に引き寄せ、何か利得を得ようとしているのではなかろうか、ということだ。

だが植物たちのその戦略も、我々動物が紅葉を知覚し、それに引き付けられる構造が備わっていなければ、紅葉する意味はない。引き付けられる動物にも、構造とさらには行動を起こす利得がなければならない。そういう意味では、進化とは個々の種だけが適応するといったものではなく、生態系全体の中で、WIN-WINの関係、最適化するように、関連する種全体が変化するものなんだろうと私は考える。

気になった私は後日、霊長類の色覚について調べてみたら、意外なことが分かった。明らかなことは、赤と緑の区別がつく三色型色覚を持つのは旧世界霊長類(アフリカ、アジアの旧大陸に住む)だけであり、新世界霊長類(南米や中米に住む)は一部の雌だけが三色型色覚で、雄とそれ以外の雌は赤と緑の区別がつけられない二色型色覚なのだそうだ。霊長類以外の哺乳類のほとんどの色覚が二色型であることを考えると、元は二色型色覚であった知覚機能が三色型へと進化したのだろうと推測でき、新世界霊長類は、かなり早い段階で南米、中米に移り住み、その後三色型色覚への進化の必要性がなかったのかもしれない。

旧世界霊長類に属すヒトは言うまでもなく三色型色覚(ごくまれに四色型色覚の人がいる)であるが、知っての通りヒトすべてがそうではなく、赤と緑の区別のつかない二色型色覚の人もいる。日本での先天性色覚異常は、男性の20人に一人(5%)、女性の500人に一人(0.2%)いると言われる。また色覚異常の発現率には人種間の違いがあるそうだ。2014年4月に米国眼科学会がOphthalmology誌オンライン版で、年少男児の色覚異常有病率には人種差があり、中でも白色男児に多いと報告している。同研究は、カリフォルニアの就学前児童(3-6歳)4005人の色覚異常を調査した。それによると、色覚異常は白人男児で5.6%と最も多く、アジア人男児3.1%、ヒスパニック系男児2.6%、アフリカ系男児1.4%と続いた。一方、女児の有病率は、全ての人種で0-0.5%と極めて低かったため、統計学的な人種間比較ができなかったという。

人種間で差があるのは色覚異常の発現率だけでなく、光の感受性も差があることが知られている。主に脳の松果体で生合成されるメラトニンは、昼間はほとんど分泌されず、夜に分泌が高まるため、内因性概日リズムを反映するホルモンとされている。メラトニンは光により急速に分泌が抑制されること、光以外の要因の影響を受けにくいことから、生体の光感受性マーカーとしてよく用いられている。虹彩の濃いアジア人(アジア群)と虹彩の薄い欧米人(コーカソイド群)を対象に光に対するメラトニン分泌抑制を比較した場合、虹彩の薄いコーカソイド群はアジア群よりもメラトニン分泌抑制が有意に大きかったそうだ。つまりコーカソイド群の方が光の感受性が高いことが示されたのである。その理由として、この研究を行った樋口重和(国立精神・神経センター精神保健研究所精神生理部)は、薄い虹彩は光の透過が大きいこと、薄い網膜色素上皮は網膜内での光の散乱が大きいことを挙げている。だがメラトニンの分泌抑制が、照度(明るさ)だけで決まるわけでなく、460nm付近(青色光)の短波長の光で最も抑制されることを考慮すると、虹彩の色や色の感受性の影響も検討すべきなのかもしれない。

哺乳類以外の動物をみると、鳥類、魚類、爬虫類などの色覚は多様であり、二色型のものもあれば、四色型のものまであり、紫外線を感知するものもいる。だがフクロウやヨタカといった夜行性の動物は光に対する感度は高い一方、色彩に対する感度は低い共通性がある。つまり光の感度と色彩に対する感度はバーター取引だ、ということだ。

確かに暗い場所では色の識別は困難となり、その必要性は薄れてくるのかもしれない。ちなみに緯度の高さと光の強さの関係は三角関数の余弦で表され、緯度60度の地域だと、赤道下の半分の光の強さになる。だが地軸は23.4度傾いているため、季節によって光の強さは変化し、その範囲は11%から80%になる。さらに緯度66.6度以上の地域になると、24時間夜が続く極夜があることから、光の感度はより必要とされるかもしれず、そのためにその地域に暮らす動物は色彩に対する感度を犠牲にしても、光に対する感度を高めるよう進化してきたのかもしれない。そういう意味では、白人男児に色覚異常が多いのは必然の結果だったのかもしれない。

北欧の漁村で家の色がなぜあれほどまでに鮮やかなのか不思議に思ったことはないだろうか? 一説には、帰港するときに自分の家がすぐに分かるように、他家と識別しやすいように鮮やかな色を使っているのだ、というものがある。確かにそうかもしれない。さすがに極夜では役に立たないかもしれないが、薄暗い時期では鮮やかな色は識別しやすいだろうし、何よりも帰港するときに我が家が分かるという安心感はことさら嬉しいことであろう。逆に家の色を彩度の低い、色合いの乏しい家だったとしたら、我が家の識別はおろか、家さえもよく分からないかもしれない。また漁村にかかわらず、北欧の建物の多くが色鮮やかなのは、暗い冬を少しでも愉しく暮らそうと思う生活の知恵なのかもしれない。北欧など北の国に共通するのは、空と氷の青は別として冬の時期の色の乏しさだ。そういう寒々しい冬において、やはり彩りは心に安らぎと元気を与える。だからこそ街の景観も鮮やかであった方が、冬は愉しい。ことは単純にそういうことなのかもしれない。

さてごくまれに四色型色覚を持つ人がいると話したが、我々三色型色覚の人々がどうみても黄色にしか見えない色に、さらに紫と青を知覚する人がいるそうだ。のちの検査によりこの人は四色型色覚の持ち主であることが判明した。だが我々三色型色覚の人々には、四色型色覚の持ち主に、この同じ世界がどう見えるか想像もつかない。同じように、我々三色型色覚の人々は、二色型色覚(いわゆる赤緑の色覚に区別がない人)にどう見えているのか類推はできるかもしれないが、まったく分からないというのが正直なところだろう。

ましてや人は工業製品ではないのだから、個人差は大きく、色覚はもちろん、光の感度もそれぞれ少しずつ異なっているだろう。そればかりか、音、匂い、味といった五感の知覚のあり方も人それぞれであり、各々がどのように、この同じ世界を知覚しているかなど、本当は分かっていないのではないだろうか。たとえば食べ物のある香りは知覚できるが、ある香りは知覚できくなったと仮定してみて欲しい。おそらく食べ物を口にするときの感じ方は普段とはまったく異なるだろうし、おそらく、その感覚は想像もできないし、他の人とも共有もできないだろう。たった今、思考実験の例として、香りのことを取り上げたが、これは絵空事ではなく、現実に、香りの識別や感度は人によって異なることが知られている。

ここまで個々人の知覚の違いを述べてきたが、認知の違いとなるとその違いはもっと複雑で大きなものになる。なぜなら認知は個々人の経験に依存するところが大きく、個々人の経験が大きく異なるのは想像するまでもない。だとすれば、知覚も違う、認知も違うとなると、個々人が互いにみている世界が異なるのは当然でないかと思うのである。

精神科医として三十数年以上診療に携わり、多くの患者を診て来た。幻聴が聞こえる患者さんも多く診て来たけれど、結局は彼ら、彼女らの感じている世界のことは分からないのであり、その怖さなど想像もつかないのである。こういった議論を展開しているうちに、ひょっとしたら本当は幻聴なんかではなく、我々が聞こえない音を聞く特殊な感覚を彼らが持ち、それを知覚しているのかもしれないとさえ、私は思うのである。

ここで価値観について少し掘り下げてみよう。価値観とは、何に価値があると認めるかに関する考え方であり、「これは良い」「これは悪い」「これは正しい」「これは間違っている」といった正邪善悪を判断するときの根拠となるものの見方である。価値観は個人の経験により形成されるものであり、それには個人の体験だけでなく、その個人を取り巻く環境(文化)との体験によって規定されていくものである。個人の経験とは、刺激(誘因)>感覚・知覚・認知・判断>行動>フィードバック>・・・の一連の流れであり、常に外界と自身との相互交流によって形成される。だが前述してきたように、個々人の認知はもとより、知覚さえも個別的であることや、そもそも個々人が体験する環境(刺激)がそれぞれまったくと言って良いほど異なることを考えると、価値観はさらに人によって異なり、昏迷を深めることだろう。

何を当たり前のことを、延々と回りくどく言っているのだ、といった声が聞こえて来そうだが、果たしてそうだろうか? 誰もが何らかのソーシャルネットワークに関わるようになった昨今、私が一番不快に感じていることは、何か自分の気に障ることがあるとすぐに炎上する風潮である。改めて私の立ち位置を示すが、個人の価値観はそれぞれ異なり、簡単に分かり合えるものではない。同じように個人の集合体である文化の、総体としての価値観はそれぞれ異なるものであり、簡単に分かり合えるものではない。その理由はこれまで述べて来た通りである。

しかも価値判断は、見えるものやことが変わればいとも簡単に変わる。視点が変われば見え方も変わることを伝えるために、私は講演会で次のような質問をする。「日本には上り坂と下り坂とどちらが多いと思いますか?」と。しばらく考える時間を与え、聴講者の顔を眺めるていると、(どっちが多いんだろう?)と真剣に考えている様子がいつも伺える。答えは言うまでもなく、どちらも同じである。なぜなら、坂は下から見れば上り坂であり、上から見れば下り坂である。途中に立てば、上り坂でもあり、下り坂でもある。こんな単純なことでさえも、人は自分の視点が相対的であることにまったく気付かないのである。つまり価値観とは絶対的なものでなく、視点が変われば、見方が変われば、場所が変われば、時代が変われば、ころころ変わるものである。個々人の価値観の基盤というものは、実はまったく脆弱であり、その脆弱な価値観で、他人の異なる価値観を非難することこそ笑止なことはないのである。

ソーシャルネットワークにおいて、簡単に炎上が起こる理由のひとつは、相手も自分と同じ価値観を持つべきだ、そしてその価値観に従って行動すべきだ、という「べき思考」にある。ふたつめは、対象の断片的な言動や特徴だけで善悪正邪を判断し(レッテル貼り)、相手をそれ以上理解しようとしない思考停止にある。

(続きは明日かも・・・)


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