加速する規制社会

健康は病人のもの
健康の有難さを知るものは
健康者ではない病人だ

太陽の美しさを知るものは
南国の人ではない
霧に包まれた北国人だ

自分はレンブラントの中に
最も美しい光を見
中風の病みのルノアールの中に
最も楽しい健康の鼓動をきく

-中村彝(洋画家、1887/7/3 – 1924/12/24)

職場でのパワーハラスメント(パワハラ)を防ぐため、企業に防止策を義務付ける労働施策総合推進法の改正案が、2019年5月29日、参院本会議で可決、成立した。義務化の時期は早ければ大企業が2020年4月、中小企業が2022年4月の見通しとされている。

後述する話によって誤解をされたくないので、最初に明らかにするが、私自身、あらゆるハラスメントも許されるべきではないと思っているし、上司からのパワハラにより、職場のことを考えるだけでも気分が悪くなるといった患者を何人も診るにつけ、ハラスメントにより辛い思いをしたり、心が傷つけられる人が一人でもいなくなって欲しいと願っている。

「チコちゃんに叱られる!」(NKH総合)という国民的人気番組がある。2019年12月27日放送の出来事であるが、ゲスト出演していたさだまさし氏が、「お前を嫁に~♪」と彼の代表曲「関白宣言」を歌い掛けたとたん、ギターを弾く指を止め、「コンプライアンス的に『お前』はダメなんだそうです」「(歌うことは)もうムリでしょうね」と苦笑して演奏を止めた。その後、「お前」の是非を巡ってtwitterなどSNSで大きな反響を呼んでいる。

問題の歌詞には、「お前」という言葉が何度も繰り返し出てくるが、「幸福は二人で育てるもので どちらかが苦労してつくろうものではないはず」とあるように、「(亭主)関白宣言」と大上段に構える物言いながらも、「お前」を「俺」の対等のパートナーと位置づけ、嫁を蔑視した言い方として「お前」と言っているのではないことは歌詞をよく読めば分かる。

「お前」の意味を改めて調べてみると、古くは目上の人に対して用いていたが、近世末期からしだいに同輩以下に用いるようになり、親しい相手に対して、もしくは同輩以下をやや見下して呼ぶ語とされている。

「お前」という言葉のように、言葉そのものに、「見下す」など蔑視を内包するものもあるが、さだまさしの『関白宣言』の例からも分かるように、文脈により蔑視の気持ちというよりも、親しみや愛情といった陽性の気持ちを表すことも可能であり、言葉にはそもそも罪はなく、もし罪を問われることがあるのなら、文脈にあるのである。

また言葉に陽性や陰性の気持ちを込めるのは、文脈だけではない。非言語的情報も同じように、陽性の感情も陰性の感情も込めることができる。「あんたなんか、大嫌い!」と大好きな男性を前にして、すねるような真似をすれば、誰だって、この女性にとってこの場合の「大嫌い」は「大好き」という意味であることくらい分かるだろう。言葉というのは(陽)でも(陰)でもない中立な記号であり、それにより感情や意味を表すのは、文脈であり、非言語的情報であると私は考える。

集合体恐怖症と(trypophobia)いうものを皆さんご存知だろうか? 蜂の巣や蟻の巣、蓮の実などの小さな穴の集合体に対して、恐怖や嫌悪を抱く症状を持つ人のことである。最近では3つのカメラレンズを搭載したiPhone 11 Proや11 Pro Maxの写真を見て、恐怖や嫌悪を来した人がいるとSNSで話題になっている。

「有毒動物を避ける」という適応の名残りであると主張する研究者もいるが、その真相は現段階では定かでない。明らかなことは、集合体に恐怖を抱くものもいれば、そうでない人もいるという事実。このことから次のようなことが推測できないか。「集合体」はただそこに存在するだけで、「言葉」と同じように中立な情報でしかない。そこに陰性の感情や意味をもたらすのは、情報を受け取った側の人間の感性(システム)だということ(ここでは、恐怖をもたらす人の仕組みを感性(システム)と呼んでおく)。

人間の感性(システム)は(後天的な)学習によっても形成される。鈎十字は、日本では古来より親しみのある記号であり、家紋に取り入れられたり、寺を示す地図記号として普及していた。時代をさらに遡れば、ヒンドゥ教や仏教、あるいは西洋でも幸福の印として使用されてきたと言われている。しかし、現在ではナチスを想起させるものとして忌み嫌われる象徴となってしまい、それが一部の方々の恐怖や嫌悪によるもだとしても、全世界的にタブーとして、公では使えないものとして位置づけられてしまっている。

しかし冷静に考えてみれば、「鈎十字」には罪はないのである。罪に問われるのは、それを党のシンボルとしたナチスの一連の犯罪行為である。もしくは本来は(陽)でも(陰)でもない鈎十字に、ネガティブな意味を持たせてしまった「人間」による一連の行為と、「坊主憎けりゃ袈裟までまで憎し」と「人間」がもつ狭量な感性(システム)にあると思う。

「鉤十字」がそうであったように、どんな言葉も象徴も、タブー視されるようにすることは容易なことである。たとえば、たこ焼きをこの上もなく愛する一人の政治家が、たこ焼き図を、自党の象徴にすればよい。そして、絶大な金力、知力、胆力をもって、周囲の政治家と官僚を押さえ込み、独裁政権とも思われるくらいの絶大な権力を掌握をする。国民やマスコミは、その立身出世振りを挙ってもてはやし、その政治家を話題としない日は一日もないというくらい、ワイドショーで取り上げられる。彼を賞賛する本や雑誌は、出せば飛ぶように売れ、その話題をまたワイドショーが取り上げ、そしてまた本が売れるという、熱狂の時代がやって来る。しかし国民の熱狂はいつまでも続かない。世の常にあるように、次第に国民の熱狂は冷め、熱狂時代にはその人気ゆえに容認されてきた失態も、マスコミが先頭を切って、その政治家を叩き始め、またまたその政治家を話題としない日は一日もないというくらい、ワイドショーで取り上げられ始める。今が旬とばかりに雑誌も挙って彼をこき下ろし、雑誌の売り上げに貢献する。この頃になると、「そんな悪い奴だったんだ」とあの熱狂は何だったのだろうと思わせるくらい国民全体がネガティブ色に染まる。熱狂時代には、どこに行っても見ないことがなかった「たこ焼き図」は、持っていることはもちろん、見ることも憚れるくらいに国民の間ではタブー視されることだろう。言葉が、象徴が、このように蔑まれるようになるのは、容易で単純なことであり、すべてがそれを使う「人間」の罪によるものであり、被害者は「たこ焼き図」であることは考えなくても分かることだろう。

(続きはまた明日)

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