これは、2015年5月5日、晴れて研修医となった長女に、初めて御馳走になったことをfacebookへ投稿したものである。
言わずもがな、今日はこどもの日である。
これまでずっと、「こどもの日」はこどもの健やかな成長を願う日だと思っていたのだが、実はそれだけでもないことを初めて知った。
今年4月、晴れて研修医となった長女が、今日、妻と私を食事に招待してくれた。もちろん娘に食事を招待されるなんてことは初めてのことで、外食をすれば勘定書きはすべて私の懐から出ることがこれまでの常だった。松戸駅で娘と待ち合わせをして、3人で東京駅へ。連休に入ってからすでに初夏の様相を呈した街並みには、家族連れ、アベックなどゴールデンウイークを愉しむ人々が行き交っていた。
丸の内南口から歩くことわずか数分。長女が予約を入れたイタリアンレストランは、三菱ビルの一角にあり、一階部分はカフェ、二階部分がレストランとなっていた。すでに予約で一杯となっており、入口には「本日は予約のみ」と飛び込み客には寂しいフレーズが書かれていた。
前菜から始まり、サブ、メイン、そしてデザートと、どれも美しく、精妙に、洗練された食事が、これまた洗練された男性スタッフにより、つつがなく運ばれてくる。隣の席では、母への感謝を祝う宴が開かれ、透明なガラスの向こうの広い客席では、めいめいがそれぞれの時間を愉しんでいた。
そんなゆったりとした時間の中、なぜか落ち着かない僕は別のことをぼんやり考えていた。
この食事が、もし仮に吉野家の並み盛りの牛丼だったとしても、あるいは世界で一番高価な、一食2000ドルもするような料理だったとしても、今の自分のような、親としての、この落ち着きのない安堵感は変わるものだろうか? いや、きっと変わらないだろう。育ててくれた親への恩返しとしての、自分で稼いだお金(もの)で親にプレゼントするといった景色は、おそらく有史以前の時代からあったもので、初めての狩猟で魚一匹を親に渡すといった簡単なものだったかもしれない。けれども、受け取った親の想いは今と変わらないものだったろう。
25年、育ててきたさまざまな苦労(でもなかったが)が、ほんの一回の食事でチャラになるほどインパクトのある出来事であるに違いない。
いただいたプレゼントをお金に換算するのは、下世話なことではあるが、ちょっとした計算をしてみた。養育費は年収の一割が相場らしい。精神科勤務医の平均年収1200万、養育年数を25年とすると、1200万×25年×10%=3000万円。実際掛かった金額を考えるともっと掛かった気もしないでもない。にしても一回の食事でチャラになる事実を踏まえると、なるほど、一食3000万円の料理はそうあるものではないだろう。確かに高価だ!!
「こどもは国の宝」という言葉があるが、やはりそうかもしれない。
養育25年で自立した。そして65歳定年(将来はもっと長いかも)として、40年は稼げる。養育費が一割だとすると、2.5年で養育費は回収できるので、37.5年分の年収を利益として生む勘定となる。言うまでもなくその年収が投資した親のものになるわけではない。しかし消費+税金として社会に還元することは確かであり、言葉は悪いけれど、こどもは確実な投資になるのである。
では国がこどもに投資してビジネスとして成立するか否か。ちょっとした皮算用をさらにしてみた。養育年数を20年。そして65歳定年とする。所得税、住民税、消費税などざっくばらんにまとめて、年収の15%だとすると、勤務年数45年×15%=6.75年。養育費が一割だとすると2年。6.75 – 2 =4.75年。4.75年分の年収が国のふところに入ることになる!! さまざまな不確定要素やリスクはあるものの、ビジネスとしてはかなり手堅いものではないだろうか。
さらに世界からお金を集金する能力のある人材を育てれば、言うことはない。仮に世界からお金を回収する外需がなかったとしても、日本の資源に見合った人口の範囲内であれば内需だけでも維持可能な社会が形成されるのではないか。遊ぶこどもの姿を見かけることもなく、高齢者ばかりがたくさんの地方の寒々しい状況を鑑みると、「こどもは国の宝」という言葉の重みを改めて感じざるを得ない。
そんなことをぼんやりと空想に耽っているうちに、長女が勘定書きを手に取った。いつもなら帰り際にすっとそれを手に取って、レジに行くのに慣れた私は、どうも不自由で窮屈な思いでそれを眺めていた。「慣れないなぁ」ぽつりとつぶやいた。
そういえば「初任給を何に使いますか?」のアンケートの一位は、親に孝行するだったが、二位はというと。何もしない、だった。まさしく、24歳の僕がそうだった。
「こんど、親を食事に招待しよう」と自戒の念で、眩しい光がまだ残る初夏の街へ出た。