小さな英雄

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
(宮澤賢治、『雨ニモマケズ』より)

今から数年前、長く勤めていた病院、最後の外来の日に、発病してからずっと診ていた患者さんから手紙をもらった。

その手紙には、自分が自分でなくなるのでは、といった不安。家族に悲しい思いをさせた後悔。楽しい事、明るい未来なんてもう来ない、死んでしまいたい、とさえ思ったこと。病気になぜなったのか、病気にならなかったら、ごくごく普通の生活ができたのに、という残念な気持ち。だが、家族や仲間など周りの支えによって、一番良い状態になれたこと。病気になったからこそ出会えた人がいて、病気になったからこそ出会えた仕事もあったこと、など感謝の言葉が綴られていました。

綴られたひとつひとつの言葉は、患者さんだからこそ語られることばかりだったのですが、その中にあった、あるひとつの言葉は、私への最高の賛辞であるばかりか、長く心の中にあった私のある思いに自信を与えてくれました。

「病気は死にたくなるくらい苦しくて辛いけど、私は病気になって良かったと思っています」

医療においてリカバリーは重要なテーマであり、医療に関わる人たちそれぞれの視点から、「リカバリーとは何か」と多く語られています。その現定義は、「人々が生活や仕事、学ぶこと、そして地域社会に参加できるようになる過程であり、ある個人にとっては障碍があっても充実し生産的な生活を送ることができる能力であり、他の個人にとっては症状の減少や緩和である」です。もともと症状の回復を指す言葉で始まったリカバリーですが、医療のみならず福祉関係の支援者、当事者の意見を汲むうちにでしょうか、年々、多義的となり、リカバリーの概念が拡大して来ました。

リカバリーという言葉が人口に膾炙し、徐々に多義化するにつれ、私はこのリカバリーという言葉に違和感を感じるようになりました。リカバリーの原義は、「回復すること、復旧すること」であり、「壊れたり、傷んだものを元の状態に戻すこと」です。ですが、昨今耳にするリカバリーは、症状の減少といったもともとの原義を外れ、障碍があっても充実し生産的な生活をする過程を指すというように、リカバリーの原義とは一致しないものまでも含蓄するようになった。それがひとつの理由です。

また症状の回復を目指した、もともとのリカバリーの概念にも問題点を感じていました。統合失調症患者に対するリカバリーの基準はとても厳しく、いくつかの研究によると、安定している外来患者の寛解率(回復よりも緩い基準)を調査したところ、全体の30%程度しか寛解していなかったといいます。言い換えると、外来患者の7割が回復どころか寛解さえもしていないことになります。統合失調症患者さんは外来患者ばかりではありません。多くの統合失調症患者さんが、入退院を繰り返したり、退院のめどもまったく立たないまま一生入院を続けています。この現実を見ると、寛解や回復といった、多くの統合失調症患者さんにとって達成の見込みのない目標を、治療者目線で掲げることに意味があるのだろうか、と疑問ばかりか憤りさえも感じていたのです。そこで私はある時から、すべての患者さんに共通する目標を考え、再定義しました。それはとても単純なものでしたが、10年以上経った今もまったく変わっていません。それは「自分の可能性を最大限発揮すること」です。これであれば、症状や障碍が仮に残っていたとしても、どんな患者さんでも、自分なりの目標を設定することができます。大切なのは、人に決められた目標ではなく、自分で決めた目標なのです。長く人間を観察していると分かりますが、人は自分のことを他人に決められたくないのです。だからこそ、目標は自分で立てる必要があるのです。

このような事情から、私はリカバリーという言葉の代わりに、再出発(Restart)という言葉を使うようにしています。その理由のひとつは、理論的に完璧なリカバリーは存在しないということです。リカバリーの原義が元の状態にすることだとすれば、症状の回復だけでなく、病気によって生じた尊厳の喪失、社会経済的損失はもちろんのこと、家族が受けた辛い体験なども回復させなければなりません。更に難しいのは時間の喪失です。これは絶対に回復することはできません。ですから、そもそもできない目標を掲げるよりも、新たな価値観で、新たな目標を掲げ再出発する方がより現実的ではないかと私は考えるのです。二つ目の理由として、症状の回復を意味するリカバリーの概念では、仮に症状が全回復しても、「健康」というゼロ基点に戻るだけであり、症状の回復が期待できない患者さんにしてみれば、どんなに努力しても進歩が得られないどころか、常にマイナスに位置するだけです。一方、「新たな自分探しの旅に出る」再出発という概念であれば、再出発地点がゼロ基点ですから、努力すれば努力した分だけプラスになります。つまり小さな成功体験を得やすくなります。小さな成功体験が動機を生むことを考えると、このことは治療習慣の確立に有利に働きます。しかも目標は「自分にとっての最高の自分に出会うこと」ですから、症状の回復を目指さす必要もなく、症状回復の見込みのない患者さんでも色々な目標を設定することができます。実際の治療場面では、再出発を勧めるだけでなく、自分なりの新たな価値観の創出を手助けし、自分が納得できる人生を選択できるように私は働きかけています。

2021年夏、さまざまな意見が飛び交う中、一年遅れて東京オリンピックおよび東京パラリンピックが開催されました。ご存じの通り、パラリンピックは障碍者を対象とした、もうひとつのオリンピックです。22競技539種目が実施され、東京パラリンピックでは、金メダル13個を含め、51個のメダルを獲得し、多くの人に感動を与えたことは言うまでもありません。

パラリンピックは、元々、パラプレイジア(Paraplegia、対麻痺<脊髄損傷などによる下半身麻痺>)とオリンピック(Olympic)の造語から始まったと言われています。その後、半身不随者以外の身体障碍者も参加する大会へとすでに変化していたことから、IOCは1985年、「もう一つのオリンピック」という意味を表すべく、パラ(Para、並行を表す言葉)とオリンピックと造語へと解釈をし直しました。このことは、第二次世界大戦傷痍軍人の社会復帰を進める目的で発祥した「福祉」としての祭典から、障碍者アスリートの台頭による「スポーツ競技」としての祭典へとパラリンピックが変化したことを意味します。この背景には、障碍者当事者や支援する人たちが、障碍を「健康から外れたもの」から「(障碍という)個性」へ考えるようになってきたことにあると考えられます。このことは、リカバリーの原義である、「外れたものを元の路線へと戻す」という従来型の考えがすでに時代遅れとなっていることを意味します。

「病気は死にたくなるくらい苦しくて辛いけど、私は病気になって良かったと思っています」

彼女のこの言葉は、健康から外れた場所から元の道に戻るといったリカバリーの概念から決して出るものではありません。それは、自分なりの新たな地図を作り、新しい目標へ至る道を作ったからこそ出た言葉です。そしてそれは、「リカバリーからリスタートへ」「今の自分にとって最高の自分になる」支援を続けてきた私に、「先生のやっていることは間違っていないよ」と背中を押してくれるメッセージのようなものであり、「私は病気になって良かった」とすべての患者さんが心から思える支援が私の目指す場所なのだと確信させるものでした。

手紙をくれた彼女は、幸い、統合失調症患者にありがちな再発は一度もなく、文字通り順調な回復(リカバリー)をしました。それは私の治療が特別だったわけでもなく、また彼女にだけ特別熱心に治療を行ったわけでもありません。明らかなことは、彼女の心に「治る力」があったからに過ぎません。

一方、彼女とはことごとく正反対の結果になる人もいます。こちらが考えうる最良の治療を提供しても、さまざまな理由や言い訳を口にして、受け入れようとしなかったり、得られた成果に満足できず治療を放棄したり、単に粘り強さを欠いていることもあります。

このように同じ治療方針や方法を提供しても、その人がもつ「治る力」によって成果がまったく異なることは、私が精神科医として働き始めていた当初から気づいていました。「治る力」がある人とそうでない人の違い。これはのちに述べる「幸せのメソッド」の開発のヒントとなったものですが、その中での一番のポイントは、現状を謙虚に受け入れる、ということ。そしてささやなか変化に悦びを感じ、感謝の気持ちを持てること、といえます。

患者の治療過程において最も重要なものは、本人の動機です。自分の病気を克服しようとする気概です。これは明らかに、「治る力」を持った患者さんの方が、そうでない患者さんよりも明確です。そして、「治る力」のある人は、小さな治療成果でも満足度が高いため、治療の継続、積み重ねができ、粘り強いのです。このような「治る力」のある人に共通する特性は、病気を克服するだけでなく、幸せな人生を歩むのにとても有利であると私は考えています。そこで、私はこれらの特性を「幸せのメソッド」としてまとめ、疾患を抱えた人だけでなく、その他多くの人に伝えることに意味があるのでは、と考えました。

令和3年1月より、「幸せのメソッド」を入院している私の患者さんへ毎月一度、試験的に行っています。患者さんの集中力を考え、一回のセッションは一時間です。毎月学ぶべき、そして実践すべきテーマを決め、そのテーマについて患者さんたちに自身の経験や考えを話合わせ、その後「幸せのメソッド」的思考スタイルを私が解説します。これまでのテーマは「あなたにとって幸せとは何ですか?」「感謝したこと、されたこと」「人生で達成したい夢や目標は何ですか?」など多岐に渡ります。

幸せのメソッドを効果あるものにするために、二つの大きな約束を私は彼らにお願いしています。ひとつは覚悟を持つ、です。その覚悟とは、「幸せになる」(目的意識)と「今を精一杯生きる」(現在意識)、です。もうひとつは行動に移す、です。「幸せのメソッド」に限らず、行動はとても大切です。幾万の言葉を語ったとしても、ひとつの行動に勝るものはありません。人は行動によってのみ評価されます。これは経験から学んだ私の考えであり、「万読不如一行」と表現し、何千回、何万回と本を読んだり、人から聞いて学んだとしても、自分で考えた一回の実践に決して敵うものはないと、実践を積極的に勧めます。

行動に移す、意味をもう少し説明しましょう。現在(自分)を変えられるのは習慣の変更だけです。その理由は簡単なことで、刺激>習慣>反応(行動と感情)といった事象の連綿が一個の個人に起こっています。言うまでなく、刺激は我々が制御したり、関与できる範囲には限りがあります。習慣は、与えられた刺激に応じて、その後の反応をほぼ自動的に引き起こします。ですから、習慣が変わらない限り、人はいつも同じ行動を取ります(私はこれを心の慣性法則、と呼んでいます)。こういった理由から、現在(自分)を変えるためには習慣を変えるしかないのです。習慣を変える方法はここでは割愛しますが、読んだり、聞いたり、考えたり、といった認知思考だけで習慣を変えるのは困難であり、学んだことをまず行動に移し、実践から体得したことを次の行動に反映する。その連綿によってようやく自分にあった習慣が形成されます。だからこそ行動に移す、ことが重要なのです。

二つ目の理由は、これは私の持論になりますが、思考や感情を変えたいのであれば、心の器である身体から変えてしまった方が早く成果が得られる、です。「水は方円に随う」という言葉がありますが、心が水、身体が器だとすると、心は身体に随う性質があります。悲しいから泣くのではない。泣くから悲しいのだ、という言葉を皆さんどこかで聞いたことはないでしょうか? すべてでないにしても、これは事実です。笑うという行為をしながら、悲しい気持ちを続けることは難しいのです。すべての芸道が形から入るのもこの事実によるのだと思います。正しい形には、(その芸の)正しい心が宿るのです。だからこそ、私は、行動に移すことを何よりも大切にし、幸せになるために必要な思考スタイルを行動に落とし、それを習慣とするよう指導しています。

皆さんはネイビーシールズ(Navy SEALs)、米国海軍特殊部隊を知っているだろうか。SEALsという名称が、海(SEa)、空(Air)、陸(Land)のアルファベットの頭文字から成ることから分かるように、海、空、陸あらゆる場所で特殊作戦を実行する部隊である。必要とあらば北極圏水中といった過酷な環境でも、与えられたミッションを実行する。従来、関わった作戦や任務を退役した隊員が語ることは憚られていたようだが、近年、みずから関わった作戦や任務の一部を元隊員が公表し、書籍や映画、ドラマなどを通じてその様相を知られるようになっている。そして近年では、過酷な訓練、過酷な実戦、いわば修羅場をくぐってきたネイビーシールズ隊員のメンタルタフネスに注目が集まっている。

ネイビーシールズ入隊志願者は、5週間の基礎教育課程後、米軍で最も過酷とされる基礎水中爆破訓練を約半年受ける。この訓練課程でおおよそ8割近くが脱落する。メンタルタフネスという視点からとても興味深いのはその訓練方法である。この訓練では、極限状況に追い込むだけでなく、不確実性が高く、必ず失敗する状況を志願者に何度も何度も経験させる。だがこのような過酷な状況において、放っておいた小さなミスでも作戦の最終的な失敗を来すことから、ミスを見つけた時点で速やかに適切な対処をすることが常に求められる。このような訓練により彼らは、どんなに不確実性が高い状況においても、酷い現実とみずからの失敗を受け入れ、「失敗の中で前進」し続けることを学習するのである。

ネイビーシールズ元隊員が語る境地には学ぶべきポイントがたくさんあるが、その中でも最も重要だと感じたのは、自分がコントロールできることだけにエネルギーや時間を注ぐ、ということである。これは「幸せのメソッド」の基本的な考え方(現在意識)であり、講義の当初から繰り返し繰り返し患者さんに伝えてきていることでもある。

パラリンピックの選手たちが私たちに感動や奮起を与えてくれるのは、抱えている障碍を受け入れ、そして自分たちなりの最高のパフォーマンスを我々に見せてくれることに他ならない。障碍を嘆いたり、恨んだりするのでもなく、最高の笑顔で最高の技能を発揮しているからに他ならない。「リカバリー」といった健康への道のりを歩もうとする努力を我々に示しているのではなく、障碍といった個性の上に自分なりの、新たな世界と価値観を伝えているからに他ならない。そこには、健常者目線のリカバリーの概念を超越した世界があるからなのです。

宮澤賢治で有名な詩のひとつに「雨ニモマケズ」があります。これは賢治の没後、手帳に書かれたメモとして発見されました。詩というより、本人の決意であったり、願いであったように私は感じます。冒頭の部分を引用しましょう。

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル

この詩を取り上げたのは、この詩に「幸せのメソッド」と相通ずるところが多数みられたからです。冒頭のこの部分は「幸せのメソッド」の「現状を謙虚に受け入れる」を別の言い方で表したようなものですし、シールズ元隊員が語った境地のひとつでもあります。この冒頭部分を、「幸せのメソッド」的にあえて書き換えると次のようになるでしょう。

私は雨を受け入れます
私は風を受け入れます
そして雪も夏の暑さも受け入れます
しなやかな心と体を持ち
(幸せになるための)正しい動機を持ち
決して瞋らず
いつも快活に笑っています

この詩の後半には次のような文があります。

ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ

この考えも「幸せのメソッド」にある、他人の評価を気にせず、自分の価値は自分で決める、とほぼ同様の内容と言っていいでしょう。この文を「幸せのメソッド」的に書き換えると、こうなるでしょうか。

誰かに批判されても聞き流し
誰かに褒められることも期待せず
誰に関心を持たれなくても気にせず
自分の価値は自分で決める

パラリンピックの選手、シールズの隊員は、自己や環境にある過酷な現実を受け入れ、自分を信じ、そして最高のパフォーマンスを実践した人たちばかりです。そして、誰も乗り越えられそうにない障碍を克服したその行動が人々に感動を与えたからこそ、皆さんの注目を浴びました。それはそれで素晴らしい、と私は素直に思います。

ですが、過酷な現実を受け入れ、自分なりの最高のパフォーマンスを実践したのは、パラリンピックの選手やシールズの隊員ばかりではありません。私に手紙をくれた患者さんを筆頭に、この世には誰にも知られることのない多数の英雄がいるのです。過酷な現実は、病気だけに限りません。自然災害であったり、人的災害であったり、さまざまな出来事が私たちの心と体を脅かします。東日本大震災、それに続く東京電力福島第一原子力発電所の事故の発生から、すでに12年も経とうとする今でも、約3万9000人の方々が、全国47都道府県914市区町村で避難生活を余儀なくされています。でもこの多数の英雄たちは、現実を受け入れ、時には不平不満を漏らすこともあったかもしれないけれど、自分なりの幸せを手に入れるために前進を続けています。彼らにはパラリンピックの選手やシールズの隊員のような華やかな経歴はありません。賢治の詩にあるように、時には「ミンナニデクノボートヨバレ」そして「ホメラレモセズ クニモサレズ」の生活をしています。そのような彼らに思いを馳せると、私には到底できないであろうことをやってのけている、彼女、彼らを心の底から尊敬し、誇りに思うのです。

2017年末、ローマ教皇フランシスコが「戦争がもたらすもの」という言葉と彼の署名を添え、世界の教会に配布したことで有名となった、『焼き場に立つ少年』という写真があります。米国従軍カメラマンだったジョー・オダネルが撮影したもので、原題は「焼き場にて、長崎1945年」です。

オダネル氏は被爆後の広島、長崎を私用カメラで300枚ほど撮影していていました。そのフィルムは43年に渡り封印されていましたが、1989年、「核戦争を繰り返さないことに役立つなら」と写真展を開きました。幼子を火葬にする少年の当時の様子を彼は次のように語りました。

「佐世保から長崎に入った私は、小高い丘の上から下を眺めていました。
10才くらいの少年が歩いてくるのが目に留まりました。おんぶ紐をたすきにかけて、幼子を背中に背負っています。しかし、この少年の様子は、はっきりと違っています。重大な目的を持ってこの焼き場にやって来たという強い意志が感じられました。しかも彼は裸足です。少年は焼き場の渕まで来ると、硬い表情で目を凝らして立ち尽くしています。
少年は焼き場の渕に、5分か10分も立っていたでしょうか。白いマスクをした男達がおもむろに近づき、ゆっくりとおんぶ紐を解き始めました。
この時私は、背中の幼子が既に死んでいる事に初めて気づいたのです。男達は幼子の手と足を持つとゆっくりと葬るように、焼き場の熱い灰の上に横たえました。まず幼い肉体が火に溶けるジューという音がしました。それから眩いほどの炎がさっと舞い上がりました。
真っ赤な夕日のような炎は、直立不動の少年のまだあどけない頬を赤く照らしました。その時です、炎を食い入るように見つめる少年の唇に血が滲んでいるのに気がついたのは。
少年があまりにきつく噛みしめている為、唇の血は流れることなく、ただ少年の下唇に赤くにじんでいました。夕日のような炎が静まると、少年はくるりと踵を返し、沈黙のまま焼き場を去っていきました。背筋が凍るような光景でした」

時も、場所も、少年の置かれた状況も何一つ分からず、たった一枚の写真と撮影者の語りから、その少年の気持ちを到底分かるとは思ってもいません。ですが、写真に写る、毅然とした姿勢と表情は、美化していると言われるのも承知で言いますが、現実を受け止め、自分なりに精一杯に生きる覚悟を感じます。けれども、その覚悟と生きざまは誰に褒められるのでもなく、誰に見られるのでもなく、ひそやかに行われている。これこそまさしく、「幸せのメソッド」を体現している姿であり、長崎の小さな漁村の、わずか10歳ほどの少年が成し遂げていることに驚きを感じると同時に、少年に重くのしかかる過酷な運命に思いを馳せると、「小さな英雄よ、頑張れ!」と心から祈る気持ちになるのです。

少年の行方は誰も知りません。ですが、私の心の中で、「小さな英雄」として、「永遠の希望」として彼は生き続けています。

(補足1)瞋は、仏教が教える煩悩のひとつ。瞋恚(しんに)ともいう。怒り恨みと訳される。憎しみ。嫌うこと、いかること。心にかなわない対象に対する憎悪。自分の心と違うものに対して怒りにくむこと(出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)。


苦労はささやかな楽しみとともに

楽しんでやる苦労は、苦痛を癒すものだ(シェークスピア、『マクベス』)

昨日はニューイヤー駅伝、そして今日は箱根駅伝を観ている(昨日でこの原稿を書き終えていれば、箱根駅伝に触れることはなかったけれど、触れている、触れざるを得なくなった理由は想像がつきことでしょう)。前者の正式名称は第65回全日本実業団駅伝、後者は第97回東京箱根間往復大学駅伝競走である。この数字を見ても分かるようにとても伝統があり、正月の風物詩として有名なものである。だがこれまでの私は駅伝にさほど興味がなく、他に観たいとも思える番組がなく、物音寂しいとの理由でBGMのように駅伝を流していたというのが本当のところだ。しかし今年は違った。まあ、食い入るように観るというほど熱狂する訳ではないけれど、ランナーのウェア、靴、姿勢や走るフォーム、テンポなど気にして見るようになったのだ。高校、大学と短距離、跳躍の経験がある。だがさして熱中するでもなく、当然優れたアスリートでもなく、ましてや長距離は小さいころから大嫌いだった。にもかかわらず、今日は駅伝を観ている。それには訳がある。

COVID-19。2019年に発生した新型コロナウイルス感染症は世界中にあっという間に広がり、社会、経済に甚大な被害を与え続けている。人の動きを止め、経済の息の根を止めようとしている。学校や大学の授業を一斉に休止する時期もあった。これほど社会に影響を与えることはそうそうあるものではなく、私の人生史上、最大の出来事に位置することは間違いない。『ノストラダムスの大予言』が当たったとすれば、それが最大の出来事というか、人生最後の出来事になるはずだったが、これは大いに滑った。

でもよくよく考えると、COVID-19が人生最大の出来事だ、なんて語っている自分はたまたま運が良かっただけかもしれない。たとえば2019年日本の10大ニュースを調べてみると、「京都アニメーション放火、36人死亡」「東日本で台風大雨被害、死者相次ぐ」「沖縄・首里城が焼失」などと多くの方が私以上に苦難を強いられている。その目を世界に見回せば、内戦や飢饉などそこかしこに見られ、苦難を受けている人の数やその大きさは計り知れない。

時間を遡れば、私がこうして何も考えることもなく呑気に過ごして来られたのも、平和な日本にいたからであり、75年前までは日本は戦禍にあったのだ。『いっきに学び直す日本史』によると1945年以降日本は戦争に巻き込まれることはなかったが、世界を見渡せば戦争がなかった年はなかったとされている。おそらくそうであろう。そして人類の歴史上、戦争がなかったことはいまだかつてなかったと推測どころか確信している。加えて疫病、飢饉、災害などもふつうの出来事だったと思えるのである。

元旦の夜、NHKスペシャル「列島誕生 ジオ・ジャパン 第1集 奇跡の島はこうして生まれた」を観た。これによると、3000万年前、今の日本列島の位置には陸地もなかったそうだ。それが地球の地殻とその下部の変動により日本列島が形成され、現在の姿になったのは、3000万年を1年に例えると、12月31日になってからなのだそうだ。そう、ほんの一日のことであり、翌日にはもう今の日本列島の形はないかもしれないのである。そのように考えてみると、私たちは非常に脆い世界に生きているのであり、偶然、いい時代にいるから、こう呑気でいられるのかもしれない。

一年のうちの12月31日。たった一日。日本列島にとってたった一日であったとしても、私にしてみれば、長い時間であり、大切な時間であることは変わりはない。だとしたら、しぶとく、愛おしく生きてみたいと思うのである。この原稿を書く上で何に例えるのが良いのか最初に浮かんだのが、サバイバルゲームである(模擬銃を用い戦闘を模す競技とは混同しないように)。決められたフィールドの中で、生存し、成功することがこのゲームでは求められる。そしてフィールドは常に一定ではなく、ゲームの進行とともに変化し、プレイヤーは適応を求められる。このようにゲームとして受け止めれば、それはそれで楽しいのではないか。そういった安易な発想である。

しかもこのゲームのプレイヤーは自分だけに留まらない。自分以外の人間はもちろん、世界に存在するすべてがプレイヤーなのだ。COVID-19もプレイヤーであり、地球上の生物、大気、大地、海洋、地球そのもの、宇宙もプレイヤーであり、それぞれが生存と成功を求めて適応を続ける。その適応の中で、共存もあれば競争もあり、反目もある。それぞれが生存と成功を希求するといった単純なルールのもとで、せめぎあいゲームが進行する。だから自分以外のプレイヤーが、自分の意図に反する行動を取ったからと言って、いちいち反応しても仕方がないのだ。これは生存と成功を賭けたゲームであり、不平不満を言っている暇などない。

不謹慎、冷酷などと思われるのを承知で言うが、悲嘆にくれていても何ひとつ変わらない。手助けしてもらえるなどと思わない方がいい。なぜなら他のプレイヤーはおのれの生存と成功のため必死であり、他人をかまっている暇も余裕もなく、「適応」という無情なゲームを続けているからだ。

このような無情なゲームにおいて、平静を保ち、最高のパフォーマンスを発揮する方法はないだろうか。この点に関する私の考えは次のようである。

世界は自分と自分以外でできている。ここでいう「自分以外」の範囲は広く、自分以外の人間を始め、生物、無生物すべてを対象とし、私はこれらを総称して「環境」と定義する。別の言い方をすれば、「適応」というゲームにおける、自分以外のプレイヤーすべてが「環境」である。そのうえでこのように考える。「環境は変えられないけれど、それに対する自分の見方や考え方は変えられる。そして行動も変えられる。そうすればおのずと感情も変わるものである」

ここで注意しておきたいことは、自分の見方や考え、行動、感情というものは互いに密接な関係にあり、これらのどれかが変わると他のものも変わるという性質を持っているということだ。だから「適応」「変化」を求めたいのであれば、これらのどれが一番変えやすいかという点に着目し、まずその要素に修正を加え、他の要素を変えていくというのが効率的である。これまでの精神科医としての経験を踏まえると、行動や習慣を変えていく介入が効率的なように思っているし、実際、患者さんへの指導はそうしている。

COVID-19の蔓延に伴い、それまで毎週通っていたジムを昨年3月には休会し、再開のめども立たない7月には退会せざるを得なかった。唯一の運動の機会を絶たれたわけだ。今思い出してもどういった理由で始めたのか分からないけれど(というか私の場合、思い付きで行動することが多いので、始めたきっかけがいつも思い出せない)、自然とランニングを始めるようになっていた。幸い場所には恵まれ、自宅から1キロも走れば江戸川の土手に出ることができ、土手道は上流にも、下流にもランニングコースがある。高台になっているため見晴らしは良く、川辺から遠くの街並みまで見通すことができる。

ランニングの流行のおかげで、ランニングライフを支援する、無料のアプリも充実しており、私はNike Run Clubを使っている。操作はとても簡単で、ランニングを開始するときに開始ボタン、終了したときに停止ボタンを押せばよい。すると自分が走った距離、時間、コースが地図とともに表示され、素晴らしいのは1kmごとのラップタイムが表示されるところだ。ランニングコースの高低差も表示してくれる。他にも優れた機能があるのだろうが、それ以上の関心もないのでよく分からない。

ランニングというか運動の効用は、言うまでもないが心と身体を活性化するところだ。私が毎週、気が進まないけれどもジムに行き、ウェイトトレーニングと水泳をしていたのはそのためだ。しかし週に一度のトレーニングでは筋肉の成長には不十分であり、ましてや仕事の都合で休んでしまうと、筋肉は衰え、また一から筋肉を鍛えることを繰り返している、という問題があった。この点について、ジムからランニングへと運動をシフトしたことはいい方向に働いた。病院の宿直やら講演会といった夜の仕事がない日はほぼほぼ毎日走るようになったため、筋肉強化には良い環境になったのである。さらにうれしいことは、ランニングしている間、耳は空いているので、その空いた耳を使って、読書ができるところだ。もちろん読む読書ではなく、聞く読書だ。先ほど引用した『いっきに学び直す日本史』もランニング中に読んだ本の一冊である。

ランニング能力の向上も関心事である。すべてのスポーツに通じることであるが、トップアスリートの動きには無駄がなく、最低限必要なところに、最低限の力しか使わない。ランニングも同じであり、効率よく走るのには、自分が発生した身体の力を地面に上手く伝え、その反動を上手く生かす必要がある。そのメカニズムは自分ではなかなか分からない。そこで、私はトップランナーの走りはどうなんだろうと気にするようになり、ランニングに関する番組を機会あるたびに観るようになったのである。大の長距離嫌いだった私からは想像もつかない、劇的な変化である。

「楽しんでやる苦労は、苦痛を癒すものだ」(シェークスピア、『マクベス』)。その真意は何だろうか? 箱根駅伝は、大手町・読売新聞社前~箱根・芦ノ湖間を往路5区間(107.5km)、復路5区間(109.6km)の合計10区間(217.1km)を、選抜された20大学と学生連合の全21チームで競う、学生長距離界最長の駅伝競走である。1区間およそ20㎞強を1時間と少しの時間で走る、初心者ランナーの私にしてみたら、鬼神がやる競技なのだ。「〇〇選手、どうしたのでしょう。苦しそうです」とアナウンスが入ったり、各区中継所において、たすきを次の選手に渡すと同時に倒れこむ選手のあまりもの多さを見るにつれ、「楽しんでやる苦労は、苦痛を癒すものだ」などといったセリフは白々しく思えて仕方がない。

それでも、どんなに苦しい気分の中でも、一条の光のように喜びの瞬間が訪れるからこそ頑張れるのも事実だ。朱色に染まった夕暮れ、そして紫へと変化する一瞬の空、江戸川に映る白い月。漆黒のビロードにビーズを散らしたような街並み、虹色で彩色した蝋燭のようなスカイツリー。気が進まないけれどランニングしたからこそ出会える一瞬に違いない。そしてランニング後の入浴は格別であり、安堵と高揚した気分が入り混じる。これを知っているからこそ、また走る気になれると言っても言い過ぎでない。

健康は病人のもの
健康の有り難さを知るものは
健康者ではない病人だ

太陽の美しさを知るものは
南国の人ではない
霧に包まれた北国人だ

自分はレンブラントの中に
最も美しい光を見
中風の病みのルノアールの中に
最も楽しい健康の鼓動をきく(中村彝、洋画家)

高く飛躍するには、一度沈み込む必要がある。どこかで聞いたことのある言葉であるが、私もそう思っている。人の感情とは不思議なもので、快適なことが続くと飽きてしまい、最初に感じた喜びを忘れてしまう。しかし不快なことが続いたあと、特に不快な時期が長ければ長いほど、快適なことに出会ったときの喜びはとてつもなく大きい。苦労と喜びは表裏一体であり、苦労を知ったものだからこそ、気づく幸せがある。

自然の現象を観察していれば分かることだが、同じことは決して続かない。嵐がずっと続くことはないのだ。どしゃぶりの日もあれば晴れの日もある。そして場所が変われば、起こっている事も変わる。どこかが夕闇を迎えているのなら、どこかは朝焼けを見ている。苦労はいつか終わる。

「私は何をするときでも、それがたとえ仕事でも、少し楽しむという姿勢を持つんだ。それで幸せになれる」(スティーヴ・ウォズニアック、Apple創業者)

元旦の朝、雲一つない真っ青な空が広がっていた。太平洋側で生活してきた私にしてみれば、まさしく正月晴れ。ありふれた毎年の景色ではあるが、これだけでも私は最高の気分になれる。しなやかに生きるコツ。苦労にささやかな楽しみを見つけ、走り続けること。きっとその先には大きな悦びが待っていることだろう。


加速する規制社会

健康は病人のもの
健康の有難さを知るものは
健康者ではない病人だ

太陽の美しさを知るものは
南国の人ではない
霧に包まれた北国人だ

自分はレンブラントの中に
最も美しい光を見
中風の病みのルノアールの中に
最も楽しい健康の鼓動をきく

-中村彝(洋画家、1887/7/3 – 1924/12/24)

職場でのパワーハラスメント(パワハラ)を防ぐため、企業に防止策を義務付ける労働施策総合推進法の改正案が、2019年5月29日、参院本会議で可決、成立した。義務化の時期は早ければ大企業が2020年4月、中小企業が2022年4月の見通しとされている。

後述する話によって誤解をされたくないので、最初に明らかにするが、私自身、あらゆるハラスメントも許されるべきではないと思っているし、上司からのパワハラにより、職場のことを考えるだけでも気分が悪くなるといった患者を何人も診るにつけ、ハラスメントにより辛い思いをしたり、心が傷つけられる人が一人でもいなくなって欲しいと願っている。

「チコちゃんに叱られる!」(NKH総合)という国民的人気番組がある。2019年12月27日放送の出来事であるが、ゲスト出演していたさだまさし氏が、「お前を嫁に~♪」と彼の代表曲「関白宣言」を歌い掛けたとたん、ギターを弾く指を止め、「コンプライアンス的に『お前』はダメなんだそうです」「(歌うことは)もうムリでしょうね」と苦笑して演奏を止めた。その後、「お前」の是非を巡ってtwitterなどSNSで大きな反響を呼んでいる。

問題の歌詞には、「お前」という言葉が何度も繰り返し出てくるが、「幸福は二人で育てるもので どちらかが苦労してつくろうものではないはず」とあるように、「(亭主)関白宣言」と大上段に構える物言いながらも、「お前」を「俺」の対等のパートナーと位置づけ、嫁を蔑視した言い方として「お前」と言っているのではないことは歌詞をよく読めば分かる。

「お前」の意味を改めて調べてみると、古くは目上の人に対して用いていたが、近世末期からしだいに同輩以下に用いるようになり、親しい相手に対して、もしくは同輩以下をやや見下して呼ぶ語とされている。

「お前」という言葉のように、言葉そのものに、「見下す」など蔑視を内包するものもあるが、さだまさしの『関白宣言』の例からも分かるように、文脈により蔑視の気持ちというよりも、親しみや愛情といった陽性の気持ちを表すことも可能であり、言葉にはそもそも罪はなく、もし罪を問われることがあるのなら、文脈にあるのである。

また言葉に陽性や陰性の気持ちを込めるのは、文脈だけではない。非言語的情報も同じように、陽性の感情も陰性の感情も込めることができる。「あんたなんか、大嫌い!」と大好きな男性を前にして、すねるような真似をすれば、誰だって、この女性にとってこの場合の「大嫌い」は「大好き」という意味であることくらい分かるだろう。言葉というのは(陽)でも(陰)でもない中立な記号であり、それにより感情や意味を表すのは、文脈であり、非言語的情報であると私は考える。

集合体恐怖症と(trypophobia)いうものを皆さんご存知だろうか? 蜂の巣や蟻の巣、蓮の実などの小さな穴の集合体に対して、恐怖や嫌悪を抱く症状を持つ人のことである。最近では3つのカメラレンズを搭載したiPhone 11 Proや11 Pro Maxの写真を見て、恐怖や嫌悪を来した人がいるとSNSで話題になっている。

「有毒動物を避ける」という適応の名残りであると主張する研究者もいるが、その真相は現段階では定かでない。明らかなことは、集合体に恐怖を抱くものもいれば、そうでない人もいるという事実。このことから次のようなことが推測できないか。「集合体」はただそこに存在するだけで、「言葉」と同じように中立な情報でしかない。そこに陰性の感情や意味をもたらすのは、情報を受け取った側の人間の感性(システム)だということ(ここでは、恐怖をもたらす人の仕組みを感性(システム)と呼んでおく)。

人間の感性(システム)は(後天的な)学習によっても形成される。鈎十字は、日本では古来より親しみのある記号であり、家紋に取り入れられたり、寺を示す地図記号として普及していた。時代をさらに遡れば、ヒンドゥ教や仏教、あるいは西洋でも幸福の印として使用されてきたと言われている。しかし、現在ではナチスを想起させるものとして忌み嫌われる象徴となってしまい、それが一部の方々の恐怖や嫌悪によるもだとしても、全世界的にタブーとして、公では使えないものとして位置づけられてしまっている。

しかし冷静に考えてみれば、「鈎十字」には罪はないのである。罪に問われるのは、それを党のシンボルとしたナチスの一連の犯罪行為である。もしくは本来は(陽)でも(陰)でもない鈎十字に、ネガティブな意味を持たせてしまった「人間」による一連の行為と、「坊主憎けりゃ袈裟までまで憎し」と「人間」がもつ狭量な感性(システム)にあると思う。

「鉤十字」がそうであったように、どんな言葉も象徴も、タブー視されるようにすることは容易なことである。たとえば、たこ焼きをこの上もなく愛する一人の政治家が、たこ焼き図を、自党の象徴にすればよい。そして、絶大な金力、知力、胆力をもって、周囲の政治家と官僚を押さえ込み、独裁政権とも思われるくらいの絶大な権力を掌握をする。国民やマスコミは、その立身出世振りを挙ってもてはやし、その政治家を話題としない日は一日もないというくらい、ワイドショーで取り上げられる。彼を賞賛する本や雑誌は、出せば飛ぶように売れ、その話題をまたワイドショーが取り上げ、そしてまた本が売れるという、熱狂の時代がやって来る。しかし国民の熱狂はいつまでも続かない。世の常にあるように、次第に国民の熱狂は冷め、熱狂時代にはその人気ゆえに容認されてきた失態も、マスコミが先頭を切って、その政治家を叩き始め、またまたその政治家を話題としない日は一日もないというくらい、ワイドショーで取り上げられ始める。今が旬とばかりに雑誌も挙って彼をこき下ろし、雑誌の売り上げに貢献する。この頃になると、「そんな悪い奴だったんだ」とあの熱狂は何だったのだろうと思わせるくらい国民全体がネガティブ色に染まる。熱狂時代には、どこに行っても見ないことがなかった「たこ焼き図」は、持っていることはもちろん、見ることも憚れるくらいに国民の間ではタブー視されることだろう。言葉が、象徴が、このように蔑まれるようになるのは、容易で単純なことであり、すべてがそれを使う「人間」の罪によるものであり、被害者は「たこ焼き図」であることは考えなくても分かることだろう。

(続きはまた明日)


PNP思考のススメ

新年、おめでとうございます。

皆さまにとって、昨年はどんな一年だったでしょうか?

「良かった」「あまり良くなかった」など悲喜こもごもさまざまな気持ちを思い抱き、「今年は良い年になりますように」と神前で拍手しているでは、と思います。

精神科治療において薬物療法は大切な道具のひとつではありますが、それ以上に大切なことは患者自身のやる気を引き出すこと。ちまたではcomplianceの意味でadherenceという言葉が頻用されていますが、アドヒアランスとカタカナ英語のまま普及しているから、本来の意味を誤用されているように思えます。なので私は最近、adherenceを「疾病克服心」と意訳して講演で話すようにしています。

脱線しましたね。当然ですが、精神科には「良くない」気持ちで多くの患者さんが相談に訪れます。そのような患者さんからどうしたらやる気を引き出せるか。とても困難な課題ではありますが、私は次のような「考え方」を話すことにより気持ちを整理してあげることがあります。

「良い」「悪い」は「好き」「嫌い」と同じ感情のひとつであり、その時の、その個人の思いであり、永遠のものではない。時、場所、人が変われば、「良い」「悪い」といった感情は変化するものである。

この世に存在することやもの、すなわち森羅万象には「良い」も「悪い」もなく、ただそこに「ある」というだけの意味でしかない。

「良い」と思ったら、「悪い」と思うところはないか。「悪い」と思ったら、「良い」と思うところはないか。ものとことを冷静に見つめよう。

最後に、「悪い」気持ちを抱いたものやことから、「何を知ることができたか」「何を学ぶことができたか」を明らかにし、「前向き」な気持ちでその経験を将来に活かそう。できれば感謝の気持ちで終えたい。

「陽」「陰」、そして「陽」の流れで気持ちと思考を整理することから、私は「PNP思考」(Positive Negative & Positive thinking)と密かに命名しています(実はこの順序も大切)。

もちろん、理想通りに患者さんがこの考えをすぐに理解するわけではありません。ですが、上に述べたようなしなやかな「考え方」は健やかな生活を送るための素晴らしい手段であると自負しています。

私事ですが、昨年2月15日、合同会社MIRAIを立ち上げました。この会社では、精神科医師、あるいは精神科病院における経営企画管理業務の経験を活かし、訪問型コンサルテーションを展開しています。

たとえばメンタルヘルス相談事業。会社におけるパワハラをきっかけに10年以上に渡って仕事についていない男性に対する母からの相談。ご自宅へと訪問し、年金受給の仕方や本人の課題、今後のあり方について話しました。

メンタルヘルスを不得手とする産業医に代わって、精神科的課題を抱えている職員の病休や復職について助言をすることもあります。

経営企画コンサルテーション事業としては、現在、勤務している病院において、マーケティングの考えを取り入れた「顧客管理システム」の構築や、医療従事者に対して経営マインドを浸透させるべく経営企画セミナーの開催など行いました(ex. 「SWOT分析のpros and cons」「あなたの売りたいものに顧客は興味ない!」「誰も知らない売上と費用の本当の意味」など)。

最後にとりあげるのは、研修講演事業。医師、看護師、薬剤師など医療従事者に対する講演が多くですが、精神科患者さんのご家族や、少しずつですが社員への研修講義も行うようになりました(ex. 「感動を呼ぶ医療をしよう!」「地域で暮らす統合失調症患者さんに快適な処方(CASC)」「統合失調症治療における『最適化』の実践」など)。

勤務医の傍ら、経営している事業ですから、本業が疎かにならないようにぼちぼちとやっていますが、この事業を通じてさまざまな方々とお会いすることは、この上もない愉しみであり、とてもいい刺激となっています。

とっても長い新年の挨拶となりましたが、最後までお付き合い下さり有難うございました。

皆さんにとって、「今年も」とっても素晴らしい年でありますように、心よりお祈りし、キーから指を下ろしたいと思います。

平成31年元旦

 


組香の愉しみ

これは、2011年8月、聖徳大学生涯学習課 聖徳大学オープン・アカデミー(SOA)が発行するSOA NEWS NO.38に、香道プログラム紹介のために寄稿したものである。

美登利、信如、霜の朝、水仙。或る年の11月に行った香席に登場した名前である。11月の「一葉忌」に相応しい香席として『たけくらべ』を題材に香を組んだ。特殊な事情を除けば、香席≒組香といっていいほど、組香は香道の重要な要素であり、数種の香木を数回焚き、その出現順序を当てるといった至極単純な香りあて遊戯を、芸術にまで足らしめ、僅か数ミリの香木から知的営みを引き出すことを成功させたのは組香の功績といっても過言ではない。これまでに、たけくらべは元より、銀河鉄道の夜、トゥランドットなど古典文学に囚われず、様々な分野から題材を探し、匂いだけでなく知的興奮を満たすことができる組香に腐心してきた。香道の愉しみは一生、尽きることはないのだ。


微熱中年

これは、2016年、式場病院文集『こもれび』の巻頭言に寄せた拙文である。手間を掛けず文を膨らませるため、昔書いた歌集を入れ子にして投稿したところ、「これでは文集全部が巻頭言になってしまいます」と言われてしまい、「やっぱダメかぁ」と歌集部分の大半を割愛してようやく脱稿できたものである。

「聞き上手」になることはとても難しい。仕事の場面でも、プライベートの場面でも、ついつい喋り過ぎてる自分にふと気づき、その都度、「どうしてもっと相手の話を聞かなかったんだろう」とひたすら反省する。

優れた医師はおそらく喋らずとも患者が治っていくのであろう。しかし患者さんやそのご家族を理解させようと熱心に話している自分は、まだまだ平凡な医師なんであろう。言葉というものは、洗練されれば洗練されるほど、少ない言葉でより多くの効果を生むようになる。究極には何も話さず、豊穣な思想世界を相手に伝えることができるようになるのである。

日本は神道の国であり、森羅万象、この世にあるすべてに神が宿るという「八百万の神」を信じてきた。人間の発する言葉もその例に漏れず、『言霊』といって言葉さえも畏怖の対象としていた。そのため、日本中にあまねく存在した言霊『和歌』の編纂は天皇の大切な事業のひとつであり、古今和歌集を始め、多くの勅撰和歌集が作成された経緯がある。

「そういえば王朝文学に傾倒したおかしな現代歌人の歌集があったな」とふと思い出し、書棚にある本をひとつひとつ辿ってみた。

「あった!」

安っぽいコピー用紙を束ね、ちょうど今回原稿の依頼をされた『こもれび』のように緑色のテープで製本されていた歌集が見つかった。

 

きさみしもの 狩野 雅允

序文

この和歌集はかねてより(とはいっても2ヶ月ほど前からのことですが…)私淑している藤原定家先生に教えを請うために書かれたものであります。しかし、定家先生は八百年ほど前にこの世をお去りになられ、直接教えを請うことができないことが最近判明いたしました。たいへんに残念なことです。一度は反古にしてしまおうとも思ったのですが、捨てられる歌たちのことを思いやると、そのまま反古にしてしまうのはあまりに忍びない、定家先生なき今日、まことに恥ずかしいことではありますが皆人にお見せする次第となったのであります。(中略)

「この和歌集の狙いは、①王朝風であること、②艶であること、③斬新であること、④個性的であること、⑤物語性に富んでいること、です。いわば、平成の『伊勢物語』の和歌集とでも思っていただけたら幸いです。時代遅れである、甘美すぎる、などの批判を受けるかも知れませんが、甘美の程は先生が撰者をなさった『新古今和歌集』『小倉百人一首』の範囲内に収めたつもりです。それよりも、批判されるべきはむしろ、現代の歌壇の諧謔性、あるいは「褻」に片寄りすぎた退屈なリアリズムにあると思うのですが、先生はどう思われますか? ひょっとしたら、「それは君、勉強不足だよ。現代の歌人でもうまい詠み手はいるよ。」とも言われかねませんが…。最終的な狙いは、現代の歌壇で詠われなくなった伝統芸能『和歌』を復活させることです。いったい今の歌で色があり『百人一首』の歌として詠めるものがあるでしょうか。たいへん気負った発言に思われるかもしれませんが、それくらいの意気込みなくては、このような王朝風の和歌集をいまどき書こうとは思わないのではないでしょうか。『いとめでたし』と先生にいわれる作品をそろえてみました。(中略)

夢見つつ

物憂き眼 きさみしものは 乳香の
やさしき霧と あかね色の夢

(五十首のうち二十首は別に掲載)(中略)

あとがき

この短歌集は第46回角川短歌賞(平成十二年)に応募するために作られたものです。角川短歌賞に応募しようと思い立ったのが今年二月上旬。短歌を詠み始めてまだひと月足らずのことでした。短歌を詠み始めるきっかけははっきりと覚えていないのですが、おそらく小説のための修練にでもと安易に始めたのがきっかけだったと思います。けれども、当初の思惑とは異なり短歌の面白さに引きずり込まれ、挙げ句の果てには角川短歌賞にまで応募する気にもなったのは、ある意味ではうれしい誤算でした。と同時に、あまりにも無謀な試みでした。その理由はいうまでもなく、短歌にはまったく無知であったこと、身近に短歌の指導を受けられる環境になかったことです。けれども無知ならではの無謀さがこの短歌集に妖艶さや新鮮さにエネルギーを与えることができたのではないかと、今となっては自分の無知に感謝しています。(中略)

さて、角川短歌賞の結果が発表されるのは今年の秋。結果は気にしていないといえば嘘になりますが、心はすでに次回の作品に向いています。短歌集という売れない出版業界のお荷物をどうやって大衆にアピールするか、芸術性をどうやって維持するかといったこの二つの相反する問題をいかにクリアーすべきかが今、私の頭の上に大きくのしかかっております。どのような解答が出せるかは分かりません。けれども、この相反する問題をこの短歌集を作ったときと同じように、初参者ならではの爆発的なエネルギーで立ち向かっていこうと考えています。

二〇〇〇年 初夏 狩野 雅允 きさみしもの

二〇〇〇年 六月一日 第一刷発行

著者 狩野 雅允 発行者 狩野 雅允

 

✤✤✤✤✤

「中年にもなっていい大人が、どうも微熱に犯されていたみたいだな」

あれから十六年が経っている。今頃、どうしているんだろう。再び何かに取り付かれてバカなことをやっているに違いないだろう。そう思いつつ、手作り感のある歌集を書棚に戻した。


落ち着かない「こどもの日」

これは、2015年5月5日、晴れて研修医となった長女に、初めて御馳走になったことをfacebookへ投稿したものである。

言わずもがな、今日はこどもの日である。

これまでずっと、「こどもの日」はこどもの健やかな成長を願う日だと思っていたのだが、実はそれだけでもないことを初めて知った。

今年4月、晴れて研修医となった長女が、今日、妻と私を食事に招待してくれた。もちろん娘に食事を招待されるなんてことは初めてのことで、外食をすれば勘定書きはすべて私の懐から出ることがこれまでの常だった。松戸駅で娘と待ち合わせをして、3人で東京駅へ。連休に入ってからすでに初夏の様相を呈した街並みには、家族連れ、アベックなどゴールデンウイークを愉しむ人々が行き交っていた。

丸の内南口から歩くことわずか数分。長女が予約を入れたイタリアンレストランは、三菱ビルの一角にあり、一階部分はカフェ、二階部分がレストランとなっていた。すでに予約で一杯となっており、入口には「本日は予約のみ」と飛び込み客には寂しいフレーズが書かれていた。

前菜から始まり、サブ、メイン、そしてデザートと、どれも美しく、精妙に、洗練された食事が、これまた洗練された男性スタッフにより、つつがなく運ばれてくる。隣の席では、母への感謝を祝う宴が開かれ、透明なガラスの向こうの広い客席では、めいめいがそれぞれの時間を愉しんでいた。

そんなゆったりとした時間の中、なぜか落ち着かない僕は別のことをぼんやり考えていた。

この食事が、もし仮に吉野家の並み盛りの牛丼だったとしても、あるいは世界で一番高価な、一食2000ドルもするような料理だったとしても、今の自分のような、親としての、この落ち着きのない安堵感は変わるものだろうか? いや、きっと変わらないだろう。育ててくれた親への恩返しとしての、自分で稼いだお金(もの)で親にプレゼントするといった景色は、おそらく有史以前の時代からあったもので、初めての狩猟で魚一匹を親に渡すといった簡単なものだったかもしれない。けれども、受け取った親の想いは今と変わらないものだったろう。

25年、育ててきたさまざまな苦労(でもなかったが)が、ほんの一回の食事でチャラになるほどインパクトのある出来事であるに違いない。

いただいたプレゼントをお金に換算するのは、下世話なことではあるが、ちょっとした計算をしてみた。養育費は年収の一割が相場らしい。精神科勤務医の平均年収1200万、養育年数を25年とすると、1200万×25年×10%=3000万円。実際掛かった金額を考えるともっと掛かった気もしないでもない。にしても一回の食事でチャラになる事実を踏まえると、なるほど、一食3000万円の料理はそうあるものではないだろう。確かに高価だ!!

「こどもは国の宝」という言葉があるが、やはりそうかもしれない。

養育25年で自立した。そして65歳定年(将来はもっと長いかも)として、40年は稼げる。養育費が一割だとすると、2.5年で養育費は回収できるので、37.5年分の年収を利益として生む勘定となる。言うまでもなくその年収が投資した親のものになるわけではない。しかし消費+税金として社会に還元することは確かであり、言葉は悪いけれど、こどもは確実な投資になるのである。

では国がこどもに投資してビジネスとして成立するか否か。ちょっとした皮算用をさらにしてみた。養育年数を20年。そして65歳定年とする。所得税、住民税、消費税などざっくばらんにまとめて、年収の15%だとすると、勤務年数45年×15%=6.75年。養育費が一割だとすると2年。6.75 – 2 =4.75年。4.75年分の年収が国のふところに入ることになる!! さまざまな不確定要素やリスクはあるものの、ビジネスとしてはかなり手堅いものではないだろうか。

さらに世界からお金を集金する能力のある人材を育てれば、言うことはない。仮に世界からお金を回収する外需がなかったとしても、日本の資源に見合った人口の範囲内であれば内需だけでも維持可能な社会が形成されるのではないか。遊ぶこどもの姿を見かけることもなく、高齢者ばかりがたくさんの地方の寒々しい状況を鑑みると、「こどもは国の宝」という言葉の重みを改めて感じざるを得ない。

そんなことをぼんやりと空想に耽っているうちに、長女が勘定書きを手に取った。いつもなら帰り際にすっとそれを手に取って、レジに行くのに慣れた私は、どうも不自由で窮屈な思いでそれを眺めていた。「慣れないなぁ」ぽつりとつぶやいた。

そういえば「初任給を何に使いますか?」のアンケートの一位は、親に孝行するだったが、二位はというと。何もしない、だった。まさしく、24歳の僕がそうだった。

「こんど、親を食事に招待しよう」と自戒の念で、眩しい光がまだ残る初夏の街へ出た。


太陽の初日

これは、2015年12月23日、皆さまからいただいたお誕生日メッセージへの御礼としてfacebookに投稿したものである。

皆さん、お祝いの言葉、ありがとうございました。

今年は27年ぶりの転職に加え、経営企画部長へと役職と同時に業務が大幅に変わる大きな転機となりました。昭和11年、文化人としても著名な式場隆三郎氏によって創立された伝統ある式場病院において、経営企画部長という立場から、経営戦略の立案、遂行、課題解決などに多くの時間を費やし、その合間に診療をしているといったこれまでとはまったく異なった不思議な時間の使い方に翻弄され、ほんとあっという間の一年であったように思われます。

経営は人が動いてくれてなんぼのもんであり、新しい経営方針を職員にきちんと理解してもらい、こちらが最善であろうと考えた戦略通りにきちんと動いてもらうことが、一番重要だと思っています。そのため、毎月毎月、経営のイロハについて、私自身渉猟し、消化した知識を職員の皆さんにレクチャーを続けて来ました。

その中で最近、一番、心に残ったことは、「変わろうと思ったとき、新しいことを始めるのではなく、今までの何かをやめる」ということ。これはとても新鮮な発想でした。「流行の断捨離でしょ?」というツッコミもあろうかと思いますが、何かをやめることによって、変化が生まれる。この発想にどうして気づかなかったのかと、自分のバカさ加減に改めて気づかされました。

伝統のある企業もそうでない企業も、実はたくさんのムダな慣習を抱えています。ですが気づいても気づいていなくてもなぜかやめることなく延々と続けられている。それは個人についてもしかり。たくさんのムダな習慣を抱えて人は生きています。

今週の日曜日、かつての同僚のご家族と、今年産まれたばかりの男の子と昼食をともにしました。何を考えているのか憶測もさせない無邪気な赤ん坊を抱き、ただただ幸せな気分に浸らせてもらいました。

人は何も持たずに産まれて来ます。でもきっと幸せなんだろうと思います(もちろん分かりませんけど)。でも生きていくうちにたくさんのものを手に入れ、たくさんの経験をします。そしていつの間にか、自分の周りと自分の時間がたくさんのものによって囲まれてしまいます。有意義なものもあれば、そうでないものいもあるでしょう。

一方、人は土に帰るとき、何を持つことなく帰ります。つまり産まれて来たときと同じように、です。いざそのときが来たとき、自分は人生最大の幸せな気分で土に帰ることができるだろうか? どうしたら、そんな気分で土に帰ることができるだろうか、とふと考えたとき、結局、持っているものなんかではなく、どれだけ有意義なことをしてきたのか。そこに尽きるのかな、と思いました。

どんな歳になっても気づくことはたくさんあります。今年、一番、気づき、肝に銘じたことがひとつあります。それは、誰かの役に立つことを一生懸命しましょう、誰かが幸せになることを一生懸命しましょう、誰かが笑ってくれることを一生懸命しましょう、ってこと。これを自分の事業として時間を掛けてやっていけば、きっとものになる。そんな思いでこの一年、働いてきたように思います。

事業の効率を測る尺度として、ROEやROAというものがあるのですが、これは投下した自己資本や総資産がどれだけ効率よく収益を上げているかというもの。経営の観点からすれば、「人を幸せにする」事業に必要な資本は少なければ少ないほど効率がよいわけで、ムダが嫌いな私とすれば、投下する資本はなるたけ少なくしたい。で先ほどの男の赤ん坊のことを考えると、彼ほど資本効率の高い子はいないわけで、まさしく彼には完敗。だって資本ゼロであれだけみんなを幸せな気分にさせるわけですから。

12月23日。冬至の翌日であり、この日から昼の時間が伸び始めることから、僕は勝手にこの日を「太陽の初日」と呼んでいます。この日から、一日一日、何かを捨てること、止めることによって、自分にとって大切なものだけに囲まれてみようかと思っています。一年後には、今よりもずっと少ないものに囲まれて、でも誰かを幸せにする・自分が幸せになる、赤ん坊のような効率の良い人になれたら、と思います。

な~んて、考えているその横で、大量のふるさと納税で、お肉やお米で何かをもらおうとしている欲深な自分がいる。これだから人間を止められないんだよな。

長々と「太陽の初日」のご挨拶にお付き合いしてくださりありがとうございました。改めて、皆さんにとって良い一年であることをお祈りします。


エッジを効かせる

A birthday card from a patient and her familly
患者さまとご家族からいただいた誕生日カード

皆さま、お誕生日メッセージをどうもありがとうございました。私からは誰ひとりとして、誕生日メッセージを送っていなかったにもかかわらず、見捨てられることもなく、誕生日メッセージをいただけることは本当に幸せ者だと感じます。

式場病院へ転職してあと少しで2年になろうとしています。臨床のかたわら、病院経営のカイゼンに悪戦苦闘し、思うように成果が出ない砂を食むような毎日を送っています。しかし不思議なもので、どこの町にでもありそうな中華食堂ならとっくに潰れているだろうという台所事情でも、病院は生き延びている。きっとそんな温い業界事情だからこそ、医療業界は他の業界にくらべると、とんでもなく危機意識がなく、経営管理もお粗末なんだろうと思うこの頃です。

先日、ソフトブレーン・サービス株式会社が主催する、営業プロセスマネジメント大学の年間アワード発表会に参加しました。これまで属人的だったトップセールスマンの営業スキルを、誰にでも習得できる営業プロセスへと昇華させ、再現性のある営業スキルを伝授するという研修をこの会社は行っており、そこで学んだ多彩な企業の中から、今年成果をあげた10社がアワードを受けプレゼンをしました。

「うちの会社は特別だから」「この業界は特別だから」といった言い訳をよく聞きますが、営業プロセスマネジメント大学で研修を受け、そして成果を出した数多くの企業の姿を見ると、それはやはり言い訳に過ぎないことを痛切に感じ、医療業界も他の業界とまったく同じものだと改めて認識させられました。

「うちの病院は重い患者が多いから」などと向精神薬の多剤大量療法が漫然と行われ、長期在院が平然と行われている事情も、結局は「心の慣性法則」にしたがって、変わろうとしない理由をただ口にしているようにしか思えないのは私だけでしょうか。

このような「心の慣性法則」による弊害は、精神科医師、精神科病院、医療業界だけでなく、社会全体に漫然とあり、これはヒトが生まれたときから現在までずっとあるように思います。「人類は進歩なんかしていない。なにが進歩だ。縄文土器の凄さを見ろ。皆で妥協する調和なんて卑しい」と「人類の進歩と調和」といった1970年万博のテーマを真っ向から否定した岡本太郎の慧眼には改めて驚かされます。

「裸の王様」というアンデルセンの有名な童話は皆さんご存知でしょう。子どものころ、この本を読んだ感想は、「どうしてあんな簡単なことが気づかないんだろう」と王さまはもとよりその取り巻きたちの気づかさなを不思議に思っていましたが、大人になってその意味を改めて考えてみると、渦中にいる、中心にいるとその理不尽さやおかしさ、非合理性に気づかない。そして傍から見るととんでもなくおかしいということは日常のようにあるんだよ。だから気をつけないといけないとアンデルセンの深い寓話性に感嘆させられます。

「エッジを効かせる」

本来の使い方とは違う使い方になりますが、どこか中心ではない、外れの位置から自分の業界を外観する。そして常に外の世界から新しい風を送る。これが私に期待されていることではないかと思う今日この頃です。

「科学と慈愛」という15歳のピカソによる衝撃的デビュー作があります。これから死なんとする患者の手を取る医師(科学の象徴)と、温かく見守る修道女と子ども(慈愛の象徴)が、患者をはさんで対比される構図を持っています。解釈は色々あるのでしょうが、おそらく当時は、新興する「科学」と、旧来の「宗教」の対立構造を意識したものではないかと思います。

しかし、私は対立ではなく、「慈愛」を具現する方法のひとつとして「科学」があるものだと思いますし、すべての企業の理念は、ユーザーへの「慈愛」を具現化するものであって欲しいと思います。ですから「科学」と「慈愛」は決して対立するものではなく、どちらも決して欠いてはならないものだと考えます。

私の誕生日の前日、患者さまとそのご家族からお誕生日カードをいただきました。その一節に、「毎日を無事に過ごせる事の幸せを日々感じております」というお母さまからの言葉があるのですが、「ほんのささやかな事だけれど、だけどとっても大切な事」を感じる心を持っていただけるように、患者さまやご家族と日々仕事をしたいものだと思います。

「ようやく子どものような絵が描けるようになった」というピカソ晩年の言葉がありますが、この言葉を胸に、「エッジの効いた」一年を過ごしてみたいと思います。


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